お話しサロン

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お久しぶりです
投稿者/はらぺこあおむしさん
投稿日/2023年5月8日(月)09:47


皆様、お久しぶりです。
以前、「被災者の今、情報」を投稿していた私です。
東日本大震災から12年が経過しました。干支で言えば「ひとまわり」!一種の節目を感じます。

昨年は1月20日過ぎに父がお世話になっていたデイサービスの責任者の方から電話連絡が入り、喘鳴が気になるから診てもらってほしいとの事。 翌日は土曜日でしたが、掛かりつけの開業医が午前中診療していたので連れて行きました。診察時に熱はなく肺雑音もないと言われ、酸素飽和度も正常値でしたが「レントゲン撮ってみますか?」と言われたのでお願いしたところ、片肺真っ白の立派な肺炎でした。(こんな事もあるんだぁ…と、ビックリ!){入院させられますか?」と聞かれたので、私の住まいの近くの県立病院を紹介して頂き、即刻、父を我が家に連れてきて月曜日受診の予定にしていましたが、その晩のうちに容体が悪化してに日曜日の朝に救急搬送しました。
突然、一人暮らしになった母が心配だったので、その後は度々様子を見に行きましたが、案の定、身動きできなくなっていて2月8日にはショートステイ先から「非常に胸を苦しがっていて、酸素飽和度が下がったままなので救急搬送します」と連絡が入り、遠方の為、夜中の3時頃に電話で病状説明を受けたりして対応しました。

両親ほぼ同時に体調不良となり、私の生活は激変しました ー続くー
続き@
投稿者/はらぺこあおむしさん
投稿日/2023年5月8日(月)10:48


父の住所変更・あらたな介護申請,退院と同時に引き取るための受け入れ環境整備,デイサービスやショートステイの契約手続き,母のケアマネへ連絡して介護度の区分変更手続き,病院へ依頼した退院調整と並行して施設探し…と、コロナ禍の真っ只中、殆ど一人で対応していました。(各施設から一人対応を要求されていた事もあり…)

母の方は、何とか入院中に受け入れても良いと言ってくれた施設(我が家から車で40分位)が見つかりましたが、受け入れOKが出る前に退院調整で見つけてもらった病院から受入日が指定されたので、先に、そちらへ転院してから2か月後(在宅中は対応できなかったコロナワクチンの接種がネックでした)の5月にやっと入所できました。
ところが・・・
入所して16日目に、以前、ショートステイ先で体調悪化した時と同じような状態になり近くの県立病院に救急搬送されたのです。やっと見つけた施設は入院と同時に退所です。(この間は、認知症が極度に進行した父を引き取って、夜中に殆ど睡眠が取れない状況が続く中、仕事にも行っていたので母が入所できた事でホっとできる筈でしたが、入所早々「部屋にテレビが欲しいと言っているので持ってきてほしい「食事を食べないので好む物を持ってきてほしい」と連絡が入り、施設通いをしたりもしていました。更に、退所を言い渡された後は、コロナの関係で全く面会が出来ずに日々の様子が分からないまま「また受け入れ先探しをしなければならないのか?と悩みの尽きない日々を過ごしていました。)ー続くー

続きA
投稿者/はらぺこあおむしさん
投稿日/2023年5月8日(月)11:32


正直言って、罰当たりな事に私は「母がこのまま病院で一生を終えてくれたら、お互いに楽だ」と思っていました。(現実的には…)
母は・・・
そのまま7月末に永眠いたしました。
今は、母の兄弟や義兄弟に連絡をして一周忌の段取りを進めているところです。

母は、生前、炊事をしても後片付けや掃除等は殆どやらず、興味を持った手芸や木彫り,切手収集,ボランティアや手品サークルへの参加等に次々手を出し殆ど中途半端なまま、次々と定期購入の通販から物が届いて自分では収集がつかずに積み重ねてしまう状態でした。(私と妹達には「ゴミ屋敷」という「負の財産」を残しました。) 外面がいいので、地区の文化祭のような場所や気の合った人等には自分が作った作品を届け、何やら地元新聞に載せられるような事もあったりして、実家の近くの方からは「すごいねぇ」と言われる事が度々ありました。
でも、子供の私達から見れば、幼い頃からほぼ毎日、理不尽に怒鳴られながら過ごし、私(鍵っ子の長女)に至っては小学校の4年生頃から『学校から帰ると食事の後片付けをして夕食の米を研いで母の帰りを待つ』という生活が続いていました。 
私達にとっては『毒親』要素が半分以上ある母でしたので、世間様から「すごいよねぇ」と言われる度に違和感ばかりを感じて「どこがぁ!?」と反発を感じていました。ー続くー

続きB
投稿者/はらぺこあおむしさん
投稿日/2023年5月8日(月)11:56


5月5日(こどもの日)に、母が生前に通っていた『読み聞かせボランティア』の代表の方から手紙が届きました。
昨年3月に
救急搬送された病院から転院するタイミングで、私がこの代表者に手紙を書き脱会を申し出ていましたが、今回頂いたお手紙には「その後どうされているか、気になっていたところ、同じグループの方から既に他界されたと聞いた」旨に加え、お悔やみの言葉と共に「心の支えでした」「大事な仲間であり先輩でした」「素晴らしい方でした」と書かれていました。

私は数年前、「皆様の迷惑にならないよう、少しずつ参加するものを減らして、どうしても行きたいものだけにするよう母に話していました。
今まで、自分のそういう考え方を疑う事はありませんでしたが、私の知り合いではない方からの今回のお手紙を拝読し、これまでの経過も含めた長い返信の手紙を書きながら、違う思いに至りました。
「母にとって、このグループは私が所属しているケア・カウンセリング協会と同じだ」という思いです。自分の本当の気持ちをシェアリングできる場だったのだろうと確信しました。
そして・・・
私が思いをはせた事があります。  その思いは後ほど・・・


私が馳せた思いとは・・・
投稿者/はらぺこあおむしさん
投稿日/2023年5月8日(月)14:38


私は成人してからもしばらくの間、『なぜ私と妹は、あんなに母に毎日怒鳴られなければならなかったんだろう?』と度々思っていました。

私は三姉妹ですが、実は母から生まれた子供は4人で、第三子は待望の男の子でした。生まれたのは私が小学校1年生の時でした、父は、当時幼稚園児だった妹を連れて赤ん坊の面会に行きましたが、私は学校があるから後で連れていくと言われたまま、翌日に亡くなってしまった弟と会う事はできませんでした。
よほど時が経ってから母は、当時の入院中の事を語り、他の赤ん坊の泣き声がするたび布団にもぐって耳をふさいでいたと話した事があります。産婆(現在の助産師)だった姑から「生きてる者の事だけ考えろ」と言われたという話もしていました。

わが子を無くした悲しみは図り知れなく、私には想像すらできません。
思えば、小学3年生頃までの私は体が弱く、出来(学業成績)も悪かったので、母がイラつく事も多かったのではないか?と思うのですが、今になって感じるのは、いくら「生きてる者の事だけ考えろ」と言われても、弟だって生まれた時は生きていた訳ですから、母の中で色々な思いや現象がフラッシュバックし、まるで発作のように悲しみや怒り,やるせなさのような思いが噴出したとしてもおかしくありません。そのやり場のない思いが、「家(核家族)という空間に身を置いた時(他者の目が届かない時・場所」に、一気にあふれ出し、母にとっての安全な空間(しかし、私達にとっては迷惑な空間)で、母の心のバランスをとる為の無意識な行動が『娘を怒鳴る』事だったのではないか?と思ったのです。(「娘達が悪いのではない」という事は重々分かっていながら、育って一緒に存在している筈だった「待望の息子」が居ないという事実に耐えられず、無意識に娘達を怒鳴ってしまう。)
そう、『頭では分かっている筈なんだけど体がついていかない』のです。東日本大震災でショックを受けた後の心理状態と似ている!と思いました。
私は自分を取り戻すまでに6年以上かかりました。・・・母が息子の死を受け入れた(と言うよりは諦めが付いた)のにはどれくらいの年月が掛かったのか分かりませんが、私が怒鳴られ続けていたのが中1頃までだった事を考えると、おそらく私が自分を取り戻したのと同じ位の年月は掛かったんじゃないだろうか?と思います。

私がこの協会で学んでいなければ、このような思いを持つ事が出来ないまま「私物語」のバージョンアップは出来なかったと思います。
昨年の7月、お葬式後の納骨は弟が眠るお墓に行っています、弟には守り通すという意味で守通(もりみち)という名前が付けられています。納骨終了後、「守通んどご、抱っこしらぃん。(守通を抱っこして)」と声かけした私でした。